延享(えんきょう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:延󠄂享)は、日本の元号の一つ。寛保の後、寛延の前。1744年から1748年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇、桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。
改元
寛保4年2月21日(グレゴリオ暦1744年4月3日) 讖緯説に基づく甲子革令に当たるため改元
延享5年7月12日(グレゴリオ暦1748年8月5日) 寛延に改元
今回は改元の予定は決まっていたものの、候補が絞り切れず、幕府には7つの案を出してそのうち「天明」「延享」「宝暦」を推挙する形を取った。これに対して幕府は「延享」を推して「宝暦」を次点としたため、その意向に従って改元を行った[1]。 『芸文類聚』の「聖主寿延、享祚元吉」から。 人形浄瑠璃が最盛期を迎え、いわゆる三大名作のうち『菅原伝授手習鑑』と『義経千本桜』の2作が延享年間に、『仮名手本忠臣蔵』も改元直後の寛延元年8月に初めて上演された。一方、延享4年頃から寛延年間にかけて、全国的に百姓一揆や打ちこわしが頻発するようになった[2]。
出典
延享年間の出来事
寛保4年/延享元年
3月4日:江戸市中で沽券調べ実施[3]。
8月:長州藩、春からの大風・嵐・洪水で、田畑の損耗高12万石余、倒壊家屋5080棟の被害。
9月:
出雲大社本殿完成[3]。
神田佐久間町に天文台建設[4]。
10月12日:江戸、衣服改の偽役人についてのお触れ書き[3]。
10月:町人の衣服・調度の華美禁制[4]。
11月:『御触書寛保集成』完成[3]。
幕府寺社奉行が熊野三山のうちの二社、那智と新宮に宛て、「延享の裁許」を下す。
杭州の人、李仁山が長崎に渡来し、人痘法を実践。また、奉行の依頼によって、種痘法を実施[5]。
延享2年
2月12日:六道火事
2月:福島藩29ヶ村の百姓が減免と、豪農・豪商の非道を訴え強訴[6]。
5月:竹内徳兵衛ら多賀丸の漂流民11名が占守郡の温禰古丹島に漂着。
8月21日:『夏祭浪花鑑』(人形浄瑠璃)大阪・竹本座で初演。
9月25日:徳川吉宗、将軍職を辞し、西の丸に移る(大御所)。
11月18日:刈谷藩の百姓、前藩主三浦義理の移封先、三河国西尾城に押し寄せる。先納金の返還を求めてのことだった[7]。
11月:徳川家重、第9代将軍宣下。
二本松藩、人口増加をねらいとした赤子養育制度「出生撫育法」を布達[6][8]。
大坂堂島で、手旗信号が試みられる[9]。
元文4年(1739年)に禁止された豊後節が再び流行[9]。
延享3年
2月2日:日田郡天領の百姓700人あまりが逃散[6]。
2月30日:坪内火事[10]。